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当局の所在地は、かつて建造物では世界一の高さを誇った、NHKの アンテナの直下です。当然のことですが超強電界下におかれ、TVI ならぬ NHK−I にはおおいに悩まされたものです。 反面、超強電界ならではの珍現象もみられました。 1.アンテナ(10m位のエナメル線)とアースの間に電球をいれ ると、こうこうと灯った。 2.鉱石だけで、8インチのスピーカーがガンガン鳴った。 3.雨の日は、雨樋からラジオの音が聞こえた。 こんなイタズラを楽しんでいた、ある日、筆の軸にエナメル線を巻き コイルにしたものを、つけてみたところ、たまたまこれが、短波帯の 周波数にピッタリあい、聞いたことのないイロイロな放送が聞こえて きました。 これが短波放送との出会いであり、のちにアマチュア無線を開局する キッカケとなりました。 |
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1958年8月1日 開局第一声を発信。 当時は無線機からアンテナまで、全てが手作りだった。 国産の無線機は皆無にちかく、アメリカのコリンズやハリクラフ ターの製品が輸入されていたが高嶺の花だった。 開局当時のラインアップ 送信機 X'tal発振 ⇒ 6ZP1 ⇒ 終段 6V6 8Watt 変調機 カーボンマイク ⇒ 12AU7 ⇒ 6V6 受信機 6WC5 ⇒ 6D6 ⇒ 12AT7 ⇒ 42 ⇒ スピーカー 空中線 地上高 8m 逆L型ワイヤーアンテナ この程度の機械でも、けっこうよく飛んでくれたもんです。 電話では、国内をゆうにカバー、電信では、ワールドワイドに楽し むことができました。 FIRST OVER SEA MAY.7 '1960 K6KDS 局 ( アメリカ ) TNX DR DICK. しかし、8Watt では、電信といえども、かなり苦しく、飛び方は 空中状態に左右された。 1961年、終段を 807 に変更、クランプ管方式による10Watt 機 に格上げした。 MAY.12 '1987 WAC証 (6大陸交信) 取得 MAY.24 '1996 DXCC証(100ケ国交信)取得 DXCCは、開局以来の目標でしたが、38年を経て達成しました。 主なアワードのページへ |
「38年かかったDXCC」 |
インターネットが急速に普及し、携帯電話でどことでも通話できる 世の中である。そういう時代にアマチュア無線とは、いったい何だろ うとあらためて思うことがある。 |
アマチュア無線の楽しみ方は、人それぞれだが、私にとってアワー ドハンティングはその一つ。'58年、開局以来、今日までハムライフ を続けられた源泉ともなっている。 AJDを手始めに、国内外のアワードに挑戦したが、常に念頭に、 DXCCがあった。実際にこの目標を達成できたのは、'96年だから、 実に38年要したことになる。(超スロモーHi!!) 開局当時、A3・8Wでも、HM、DU、UA等、近隣諸国との交信を 楽しめたが、翌 '59年、CWが許可され、ローパワーでもワールド ワイドに交信できるようになった。 その頃はまだ、DXCCは高嶺の花だった。本格的に照準を定めたのは、 '85年、ピコトラ+GPにしてからである。ミニパワーだが、おりから のサイクル22の波にのって、面白いようにカントリーが増えていった。 しかし、しだいに伸び悩んだため、次にY社の10W機を購入。8Wで 開局したこともあって、DXCCは、なんとか10Wで達成したいと思っ ていた。珍局のパイルでは、呼べど応えず、そのうちにコンデションが変 わって、フェードアウトしてしまう、というようなことは、ローパワーで は年中であった。しかし、根気よくワッチを続け、一瞬の空白をついてコ ンタクトする醍醐味は、また格別である。 そして96年、110カントリーをコンファームしたところで、ARR Lに申請、取得した。DXCCの達成記念に、100Wに変更申請、やは りY社の機械を購入した。しかし、100W機と10W機の使用感は、あ まり差がないというのが実感である。それ以上にコンデションの差のほう が、はるかに大きいことをあらためて感じた。(当然ですねHi!!) サイクル23を迎え、まだ未完成のWAZ、WAS、CA等、新たな目 標を模索している。時代が変わっても、私の楽しみ方は、変わらぬようで ある。 |
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画面左側の大型機は、WESTING HOUSE社製舶用通信機の函体とVFO のダイヤル機構を活用して製作したホームメードのトランシーバー です。 設計から製作完了まで、半年近くかかりました。 シャシーが厚さ2ミリの鉄板のため、自宅では改造できず、鉄工所に 持ち込んで、真空管やトランス、各種部品の取り付け穴を加工しまし た。 本機の特長 ※ 終段管の第一格子とシャシー間に、45V の乾電池を入れ固定 バイアス方式とした。これによりキーイングが楽になった。 ※ 変調をクランプ管方式とし、電信、電話の両用を容易にした。 ※ VFOはバリコンの羽を抜き、バンドスイープを容易にした。 本機の欠点 とにかく重いことです。約20キロありますが、ウンウンいい ながら移動運用したこともあります。 |
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DXCCに本格的に取り組みはじめたのは、1985年でした。 この年、QRPの典型である、「ミズホのピコトラキット」を購入し、 15mをワッチするようになりました。 時あたかも、サイクル21のボトムから、サイクル22へ向けて絶好 のコンディションを迎えたところです。 たった 2wのピコトラでも、南北アメリカ、アジア、オセアニアと 面白いようにDXができました。 しかし、ヨーロッパ、アフリカ がなかなかとれません。 そこで、YAESUのFT757SX・10w機を購入しました。 むろん10wですから、限度はあります。混信の場合はまず勝ち目は ありません。 しかし、わずか周波数をズラすことにより、ハイパワー局の合間をぬ って交信できたこともありました。 またアフリカ大陸の西側にある アスンシオン島のZD8Z局のCQ が強力に入感したので、呼ぶと一発で応答あり。あまり強いので、 あるいはUCか?とも思ったほどでした。 数ヶ月後に同局からQSLが届き、やはり本物だったんだなーと、妙 に感心したもんです。 1991年、DXCCを達成した記念に、100w機を購入しました。 ( 100ケ国交信は91年に達成しましたが、QSLがそろうのに 5年を要しました。) さてパワーアップはしたものの、時すでに遅くサイクル22は下降 局面にはいっていました。 あたりまえのことですが、短波帯の通信は出力よりも、はるかにコン ディションに左右されることを実感しました。 いままさに、サイクル23の上昇期を迎えつつあります。 またしばらく目を離せられなくなりましたね。 (Dec. '97) |
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アマチュア無線の楽しみかたは、人それぞれですが、QSLカードの 交換も楽しみの一つです。 規格のカードもあれば、手作りあり、また写真やオリジナルのデザイ ンに工夫をこらしたものなど、カードにも人柄がにじみでているよう です。 また、QSLカードは AWARDの申請にかかせません。 いくらオレは100ケ国通信したぞ、といってもそれを証明するQS Lがなければ、DXCC AWARD の申請はできません。 QSLカードの交換は、交信の際、各国の無線連盟経由とするか、ダ イレクト(直接相手局にカードを郵送する)か、あるいは、QSLマ ネージャー経由とするか等、確認します。 連盟経由は最も送料が安くてすむ、というメリットがありますが、時 間がかかるというデメリットもあります。5年たって届いたというも のもありますし、1980年代のカードが届くこともあります。 どうしても欲しい国の局へは、ダイレクトで送ります。 そのために、INTERNATIONAL LISTINGS ;国際的な局名録が販売されて いるほどです。 この名簿で探し出して、IRC(国際返信券)を同封し、QSLを送 ってくれるよう、要請します。 これで、相手局のQSLカードが送られてくれば、メデタシメデタシ ですが、世の中それほど甘くありません。 日本のように、送ったものが確実に届く、というように、安定した状 態にある国は、むしろ少ないと思ったほうが間違いないようです。 それだけに、QSLカードが送られてきた時は、ホントにうれしいで すね。 (Dec. '97) |
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電子が飛ぶ、電流が流れる。真空管の中のできごとである。真空管 は見るからにあたたかい。ヒーターがあかあかと灯ると、生きてる なと実感する。 ところが、トランジスターはどうだろー。スイッチを入れようと切 ろうとまったく変わらない。ましてやIC,LSIとなったら生き てんだか死んでんだかわかりませんね。 真空管全盛の時代、ハムにとっては設計から製作まで、すべてが手 作りでしたし、工夫する余地がおおいにありました。 生まれてはじめて買った真空管、それは 12F という名の整流管 でした。古道具屋で入手したものですが、家に持ち帰り、火を入れ た途端に管内でバチバチバチッと、火がとび、ハイソレマデ。 生死が目で見えますね。 それでもトランジスター位まではなんとかついていったんですが、 IC,LSIになると、もういけません。 結局、トラブルを追跡するのに、真空管はテスターさえあれば十分 ですが、IC,LSIは高価な計測器が必要なんですね。 気がついた時には、ブラックボックスになっていました。 もうしばらく前のことになりますが、直流電源位は自分で作ろうと、 秋葉原へ出かけ、部品をそろえたんですが、帰り道、たまたま見か けた完成品がなんと部品代の半額。しかも当然のことながら見栄え も良い。 手作りの夢は消え失せて、部品代の払い戻しを受け、完成品を買っ て帰りました。 手作りとは、時間的にも、経済的にも大変ぜいたくなことになって しまったんですね。 (Dec. '97) |
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